火星にブランケット
どんな夜にも意味がある。
詩美的な美しさを全身の細胞で感じ取れる夜や、怠惰な自分を天から見つめ深い内省と自己嫌悪を感じる夜にだって。 この感性は日本人特有だろう。暗さに美と艶を見出せる感性。
毎日の中の夜が、美しく艶やかだったら、どんなに素晴らしいだろうか。
しかし、そんな夜は自分で作り上げるしかなかった。それならば今日は火星が近付いていた。
「火星を見に行こうか」弟に声をかける。
「行こうか」答えを受け取る
「よし、行こう」
「行こう」
こうして僕と弟は夜を作る小旅行に出かけた。そんな僕らの持ち物といえば、手のひらサイズの最先端だけだった。
街灯を頼りに15分ほど歩けば、星が見えてくる。
しかし、街の明るさからか、はたまた月の明るさか、今日の星はよく見えない。
こんな時に天体望遠鏡でもあれば、などとつまらない言い訳を考えてみた。
見えないものは仕方がない。地球にいる限りは自然の隷属として生きねばならない。自然の美しさをそう簡単に消費させてくれないのが、自然の良いところだ。
だが、自然が微笑まないからといって美しく艶やかな夜にならないかといったら、そうではない。
天体望遠鏡が無くて、肉眼で見上げる空と宇宙こそ、宇宙の中でルサンチマンに満ち溢れた僕たちに、等身大の美しさで微笑みかけているのかもしれない。
美しさや個性にまで値札が付けられ、自然に隷属する以前に、道具主義的感性に隷属した僕たち。
冷静に考えれば、夜にも価値を求めた僕。
神が7日で作った世界の、明るい時間と暗い時間に意味も価値もあるはずが無いのに。
そんな事を考える僕を、わざわざ7000万キロまで近づいて見にきたかのような火星。
あれ、
僕が火星を見に来た?
火星が僕を見に来た?
大事な答えは星間塵に埋めて、シーツとブランケットの間のひんやりスポットを探しながら、ゆっくり夜を貪る。