思い出プールと水の星
平成最後の夏に、ミレニアムベイビーな僕らは様々な「最後」が重なる。
その「最後」達はまるでパズルのように体系を表すかと思えば、いたって無秩序に現れたりする。
「最後」という言葉に意味を見出そうとするのは若さが成し得る技であって、僕がまだ少年であることを意味している。
「死ぬことなんか怖くない」
そういう唇はまるで、万物に質量を与えるヒッグス粒子がその空間だけ消えてしまったかのように軽い。浮く。密度もない。
平成最後の夏に、人生最後のプールの授業。ハイターみたいな塩素の香りと、床を覆う生温い水。プールに浮かびながら、まだ僕に追いついてこない「最後という実感」を待ってみる。プールの端から端まで戻っても、まだ追いついてこれないみたいだ。
ひょっとして更衣室においてきちゃったのかな?
まあ、そうだとしたら帰り際に持ち帰ればいいか。
ゆっくり僕は底まで潜ってみる。記憶のプールの底まで潜ってみる。
小学生の頃はゴーグル付けていいのは3年生からだったなぁ。とか。通っていたプール教室2週間で辞めちゃったなぁ。とか。なんとなく、徒然なるままに思い浮かんでは消える思い出の端くれを、プールの上に浮かべて、沈む様子を少し眺める。
そういえば、プールの底に落としたカラフルな石を拾うゲームあったなぁ。鼻の奥がヒリリと痛くなる。
思い出を潜った僕は、水面みたいな現実と思い出の境界線から頭を出す。みんなの思い出で濡れたプールサイドを、足の裏に水を感じながら歩く。シャワーを浴びて更衣室まで戻れば、終わりは確実に近づいていた。髪を濡らしている思い出を綺麗にタオルで拭き取る。あと少しすれば、今、髪を濡らしている思い出も自然に蒸発して消えてしまうだろう。
裸足の僕は靴を履き、休憩時間をなるべく減らさないように、友達と少し急ぎながら教室へ戻る。
(ゴーグル忘れたかも)
バッグの中も見れば、黒く濡れたゴーグルが底にたたずんでいた。
あ、
最後の実感は更衣室に置きっぱなしだ。
まあ、大人になる頃には実感の方から来てくれるか。
そんなことを考えながら、終業のチャイムを聞き流す。
人生の中のエモくて水のように澄んだ思い出も、きっと気づけば通り過ぎていて、2度と戻れないと気づいた時に、やっと実感が追いついてくるのかもしれない。
ひょっとすれば、今のこの1秒も人生最後の1秒なわけだから、実はみんな気づいているかもしれないね。
また大人に近づいたみたいで嫌だなあ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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