カメレオンの抜け殻

1日1本だけ、読むと元気になったりならなかったりするブログを書いてます。

春雨

そもそも。

文章を書くのは好きだが、別に得意なわけではないのだ。

 

伏線回収がオシャレな長編を書けるわけでもないし、解像度の高いエッセイを書けるわけでもない。
キーボードを弾いただけみたいな散文しか書けない。
「続けるのも一つの才能」みたいないい言葉にまとめた人間もいるが間違いなくそいつは表面だけ優しい人間だ。そいつの根はどうしようもないやつだ。DVするタイプ。箸の持ち方はきっと汚いし、居酒屋の座敷に上がった時に靴を揃えないタイプ。

創作した人にはわかると思うんだけど。
書き続けた先にあるプロとアマチュアの壁みたいな。あれを無くしてくれ。
表現の工夫も研究も全く意味をなさない、決して触れることのできない表現をくれ。
自分の考えたことを文章にしたら、世界がひっくり返るような衝撃を受けるあれだ。

続ける才能なんていらない。

目の前の雨を現実以上に美しく文章にする才能をくれ。
細くて長い食べ物に最適な名前をつける才能をくれ。



理想あげたらもうキリない。

みんな理想を目指して生きている。

金持ちになる理想。


運動会で一等賞をとる理想。


意中の人間を手に入れる理想。

 

ならばその理想の形はどこからきているのだろうか。
僕なら、読んだ本と見たアニメだろうか。
きっと漱石の『こころ』と庵野の『エヴァンゲリオン』だろうな。

悩める若者という理想に憧れて、文化的で理知的だが他者との接触が怖いといったような理想を自分の人生に纏わせて生きている。きもちわる。
エヴァ最大の罪は、悩みかたの教科書みたいな顔してんのに、自分だけ悩みの解放を見つけているところだよな。教科書みたいできもちわる。

 

ガキの頃の理想はとっくの昔に忘れてしまって、中学生の頃と同じ理想を引きずって生きている。

 

幸せの掴み方なんて人それぞれなのに、自分を守るために人の生き方を否定している。
誰かの人生を踏み台にしかできない自分の人生。
こうして最後は自分自身の生き方さえ否定してしまう。

可哀想な自分。味方が誰もいないなんて。

 

理想を見つけることや、誰かの理想よりいい理想を見つけることがいい人生。

 

お前の顔はどこだ。

 

足りないものを満たしていきたい

 

余白と太陽光

どこかで常に、「余白」を追い求めている。

 

仕事は毎日あるし、仕事以外でやらなければいけないこともたくさんある。
確定申告とか、確定申告とか、確定申告とか。

 

でも、それに目を瞑ってやるゲームは確実に1番楽しいし、10時間ぶっ通しで制作した後の煙草も1番うまい。

ここ何年かで、人間の倫理観が正文化され、新たなスタンダードを作り上げてきた。
暴対法や、男女平等論がいい例だと思う。
なんとなく嫌だったものを、SNSを通してみんなで見つめ直して作り上げていく。
民主主義のための議会は信頼できないし、民意を無視しているような感じがするし。
どんな人間も、好きな時に誰かと繋がりを持てるSNSに集まっている。

 

お金もないし、有名になるだけの才能もない。
生きているだけで税金は取られる。
大人になったからこそやらなければいけないことと、大人になってもやりたくないことと、毎日睨めっこしているような感じだ。

そんな矛盾した2つを二律背反にさせないよう、余白を求める。

写真も文学も、細かいディティールはいらない。
薄いモヤのようなフィルターを通した写真。絶対にあり得ないけど、こうなったらよかったかもなと思う恋愛映画。浅い不幸だけを垂れ流す文章。

 

実在しないものを、ひたすらに追い求めて、現実から離れた仮想空間に集まる。

 

今ある現実より少しいい余白だけを、それが決して手に入らないものだとも知らずに追い求め続けていく。

だがいつかは印税生活

自分の言葉だけで、ただひたすらに、虚空に向かって言葉を吐き続けるのが得意だ。

 

こうやって有る事無い事何も考えずにタイピングしていけばいい。
わかりやすい文章は苦手だ。

それを克服しつつ、文章を書く楽しさを知ってもらおうと思って書いた。

何もない白紙を自分の言葉でひたすらに埋め、読まれても読まれなくてもそこに存在し続けるのだ。デプリのようにひたすら誰にも気づかれず、危険だと判断された時にだけ攻撃されるのだ。

意味を感じない日常に、希望を見出すために書いても何も得られない。
電気をつけない部屋で、鬱々とした気分を書く。自分が芥川や漱石であると思い込みながら、書く。この瞬間が無駄であることを理解しながら書く。一個もいいねされなくても書く。やる気があっても書く。なくても書く。生きていれば書く。死んでも書く。

一銭にもならない狂気じみた脳を、一度取り出し、じっくり眺め、原稿用紙に叩きつける。コンプレックスも、日常も、ストレスも忘れて書く。その瞬間を誰に奪えるだろうか。

 

鬱の時こそいい文章が書けるが、躁でも書かなければならない。
誰かによく分からん批判をされても書かなければならない。
真意を汲み取られなくとも、理解したふりをされても書かなければならない。

そういう生活を送るが、一銭にもならない。

文章と知見

どうやら最近、周りの人間がnoteなるものを続々はじめいてるようなので、私も久々に文章を書いてみようと思う。

 

まぁ、宮古界隈でいちばん早く文章を書きはじめていたと思うし、いきなりはめじた人間には負けていられないという、空虚な自負心が理由である。

 

 

本来、人間は文章を読むということが得意ではない。
これは自明である。
私がここまで丹精込めて書いた文章を、一字一句、噛み締め、2回の誤字に気が付きながら読んだ人はそれなりに少ないだろう。


読みやすい文章を書く
という行為ほど、難しいものはない。
細部に拘ればいつまで経っても流砂の中でもがくようなものであるし。こういった比喩などを入れた瞬間に、いっそう読み手は興味をなくす。

なのでここからは至って真面目にコツを書き連ねていく。

 

1.結果の最初に

これはスライドなどでよく使われる手段なので、知っている人も多いだろう。
結果はタイトルに示すことで、読み手の関心を惹くことができる。さらに、結果を前提として文章を読んでもらえるので、論理的なプロセスを読み手の脳内で、書き手の思い通りに組み立てることができるのだ。

現にこの文章を読んでいるあなたは、「さっさと」、「それなりに」、「できる風な」文章を書くために、このブログを読んでいるはずだ。文章は2行で説明できる事柄を、何十行でも引き伸ばして書くことができる。修飾語や、比喩はときに無駄になりすぎるのである。
2番目の項目は結果を最後に書き、長ったらしくしてみるので、読み比べていただきたい。

 

2.日本語は難しい

日本語という言語は、学べば学ぶほど、書けば書くほどその難解さを思い知ることになる。それは英語や独語、仏語などの他言語を能動的に学習したことのある人間には理解が容易いだろう。我々日本人は、自分の思考を言語化し、書き記すためにこの言語を使わなければならない。なんという不幸だろうか。
しかし悲観している場合ではない。私たちは文章を書くことを目指しているのだ。書かねばなるまい。
ではまず文章を書く際に、細かいルールを気にする必要があるだろうか?
これはこの先書くこと全てに関係してくるが、よっぽどで無い限り「ない」。
完璧であることに越したことはないが、その結果かえって読みづらくなる。そもそも完璧でなければいけないのなら、日本語学者以外には文章が書けなくなってしまう。
先ほど述べたように、結果から列挙し、単調な文章の方が情報の吸収効率は増え、記事の評価も高くなることがあるのだ。
読者はそれほど文章に興味がなく、その内部にある情報に興味がある。そのことを頭の中心に据えながら書くほうが、自分の情報を発信することが目的の文章はわかりやすくなるだろう。

 

 

休憩

ここまで読んでみてどうだろうか?おそらく明らかに1番の方が読みやすいだろう。ここから後ろは、本気で文章を書きたい人以外は飛ばしていただいて構わない。内容がニッチになりすぎるので。
結果を後ろに置いてしまうと、学生の頃にやった英語の長文読解のようになってしまう。結論までのプロセスが、文章の中でバラバラになっているのである。先ほど言ったように、読み手はそのnoteやブログに書いてある「結論としての情報」に興味があるのだ。あなた独自の表現はそれほど重要では無いし、こだわって作った文章に読者はさして興味がない。「やればできる!」ならオンラインサロンではなくティモンディ高岸で十分であるし、洗練された文章を読みたいならアマチュアではなく太宰を読めばいい。

 

3.見出しは短く

見出しを短くすることには、2つメリットがある。
1つ目は言語化できるということだ。自分が項目を書くにあたって目的を目の前に据えることのなる。
2つ目は自分の理解度が上がるということだ。特に見出しに結論を置く場合には、その結論を短く書けるほど理解している。ということになるのである。

 

4.構成は単調に


至って単純な
結果

理由や感想、根拠

結果を繰り返し

と言った構成が多くの場合で伝わりやすい。無駄がなく、読み手からしてもわかりやすいからである。

実感が湧かない人は、小学生の頃の読書感想文を思い出してほしい。
先生からは「起承転結を意識して上手に書いてね」と言われるが、蝉の鳴き声が聞こえる最終日に白紙の原稿用紙が残っている。
実際、起承転結の構成はとても難しい。興味がある人は「糸屋の娘」という詩を読んでほしい。これを使って論述することの難しさがよくわかるはずだ。
この単純な構成は、普段の日常会話で多く使われるので、多くの人が日常の中で練習していることになる。書いてみるととてもスラスラかけるので、行き詰まっている人は試してみてほしい。


5.最後に

文章を書くことは難しく、自分の言語化能力と対峙する必要があるため、時に苦痛を伴う。しかし、毎日書くことは決して無駄ではなく、小さな積み重ねが気づかないうちに大きくなっている物である。昔の文章を読み返してみて実感する。
筋トレや楽器の練習のように、1週間使わなかった能力は目に見えて劣化していく。だから常に書いて書いて書き続けることこそ、自分らしい文章を書けるようになることにつながる。
自分自身が4年間書いているからこそわかる。
自分の無力さと、白紙の上では自由になる解放感。この2つを行ったり来たりしながら得る「自分らしい文章を書けた瞬間」は何にも変え難いので、書き始めたみなさんは書き続けてほしいし、書こうとしているあなたには是非とも、紙とペンを手にとるなりパソコンやスマホを開いてほしい。

 

 



長い駄文を読んでいただきありがとうございました。
細かいことや、わからなかったことはラインなりDMなりで聞いていただけると返信できます。お気軽にどうぞ。

俺は死ぬまではてなブログだからな!

 

評論するなら金をくれ

評論文が好きだ。

義務教育の教科書に載っているものや、文芸の評論、はたまた絵画の評論も好きだ。

 

評論をかける人間は往々にして頭がいい。文章がどこまでも整っている。理路整然と自分の評価軸をぶらすことなく、作品や事物を評価していく。
何故悪いのか。何故良いのか。


そんな文章を読んでいる時、自分も高尚で頭のいい人間になった気がする。小林秀雄を読んでいるときなんかそうだ。今まで自分の内側に無かった考えを、読み、飲み込み、まるで最初から自分の考えであったかのように、うんうん。と頷きながら読む。

自分が知らなかったことや、新しい評価軸、論の構成の仕方を読むのはとても楽しい。
知識欲は並々と満たされるのを感じるし、表現も真似してみたいと思う。

しかし心のどこかで、モヤを抱えている自分もいる。

いやだ。

 

自分の書いた文章は自分のために存在しているのに、人目についた瞬間他人のもの、みんなの共有物であるかのように扱われてしまう。

よくわからない人間にごちゃごちゃ言われ、お前は間違っている。頭のいい人間ぶるな。自意識過剰だ。などと言われるのだ。いやだ。

 

黙って僕のノートや作品にお金だけ払ってくれればいいとすら思う。
感想も特にいらないので、広めるときは買って、他の人に渡して進めてくれと思う。

他人に評価なんてされずに、買って金をよこせ。というのはダブルスタンダード過ぎるかもしれないが、それが心の底からの願いなのでしょうがない。

 

下らん他人の賞賛も、批判もいらない。
しかしうまい飯を食って、タバコを吸って、でかい家に住む金がほしいのだ。

お金をくれ。

しりとり

久しぶりに本を読めるぐらい調子が良くて、文章をかけるくらいに調子がいい。

 

他人の書いたエッセイを途中まで読んでそれからまたこうやって画面に文字を打ち込んでいる。

 

他人の文章を読んでようやっと文章を書き始められるくらい、やる気というものが起きない。
他人の書いた文章で炙り出された自分の怠惰を、何度も何度も反芻しながら、文字を打ち込んでは消しながら、ページを進めては戻りながら、タイピングしていく。

 

時間がないことも自覚しているし、こうやっている間に社会との距離が離れていくこともわかっているのに、タイピングしていく。

 

いや、逆にあえて社会との距離を離しているのだ。
だがその行為は、釈迦の掌を飛び続ける孫悟空と一緒で、結局小さな個人の犯行として、それすらも巨大な社会に取り込まれてしまうのだ。

水流のロックのような約束をする人間もいない。
あるのはペンと紙。キーボードと液晶。怠惰と自分だ。

何度も何度も似たような感情を昇華しては、呼び戻して今日も文章を書いていかなければ巨大なものに打ちひしがれてしまう。

 

だから書くし、きっとそうでなくても僕だから書くのだ。