カメレオンの抜け殻

1日1本だけ、読むと元気になったりならなかったりするブログを書いてます。

台風とお守り

「次に台風が来たならば、その雨に打たれて、風に吹かれて。台風を十分に感じた後にタトゥーを入れたい。」と思っている。

 

左の脇腹に、活字で。

 

自分の仕事を考えると、いささか非現実的で、心のどこかでは「まだ台風よ来るな」と思ってはいるが、「いっそのこと明日にでも来てくれ」と思っている自分もいる。

 

人生は到底予測不可能で、辛いことばかりが目につく。

幸せよりも困難の方が多く感じてしまうし、その困難を乗り越えるのはとても大変だ。

 

そんな時に、死ぬまで自分に寄り添ってくれるものが欲しい。

70歳で死んでも、27歳で死んでも。その時まで自分に寄り添ってくれるものが欲しい。

 

そもそもタトゥーも髪の色も個人の自由で、見た目で気分を害する人間なんて面白くない人間なので、僕は好きな髪色と全身にタトゥーを入れたいのだが、いかんせんそうもいかない。

 

髪は染まっていた方が気合が入るし、好きな服に合う髪型にしたい。
小さな願いも叶わない世の中で、反骨心と、自分の内側からゲボのように湧き出る感情を両天秤にかけながら、台風を祈りながら今日も生きていくしかない。

ひとりのカルメン

今日の文章は自分自身Eテレに救われたから書いた。

中学校の体育館で見たカルメンは、ほとんどの友達は寝ていたが僕は目が離せなかった。

圧倒的発声。きらびやかな意識。規模は小さくても触れたことのない本物がそこにあった。

 

そこからEテレで深夜のオペラを毎週見ていた。
感想を共有できるような友達もいなかった。

だからこそ見ていた。共有できなくても表立って言わなくても、好きなものを見続けていたかった。

デザインあ だってそうだ。毎回一眼でわかるのに絶対に自分じゃ思いつけない、アイデアやデザインが出てくる。しかもそれらは枯れることなくどんどん新しくなっていく。その感動が好きだった。

元から音楽はジャズが好きだったし聴き馴染みもあったので、自然とN響クラシックも見た。

身の回りの植物の名前も覚えていった。

 

美しいと思うものを、声に出さずとも美しいと思っていいのだと知った。
さらにそれらがなぜ美しく、自分を惹きつけるのかということも理解できていくようになった。

 

だからこそ、Eテレにはなくなって欲しくない。

夜中と孤独と芸術

【はじめに】

更新しなくなってから、もうだいぶ経つのに、なぜか毎月1000回以上読まれています。
偶然見つけてくれた人も、思い出したように読み返してくれている人も、読んでくださっている方に感謝しています。本当にありがとうございます。

 

今日

某内閣ブレーンの方が

Eテレは視聴率が低いから、売却してしまった方がいい。」

と発言して炎上しているようです。

 

まぁ当然です。
世界初の教育専門チャンネルとして、国内ではもちろん世界でも有数の、単一チャンネル内における圧倒的多様性を誇っているEテレを売却だなんて。
きっとEテレを見たことがないのでしょう。

おかあさんといっしょN響趣味の園芸etc.
こんな番組を同じテレビ局でやって視聴率を期待しようとする方がおかしいのです。

 

田舎とEテレ

田舎というのは非常に罪深いです。刺激もなく、知りもしない他人の噂話が娯楽です。多様性は同調圧力の影に埋もれ、周りと同じように陽の当たる場所を求めて生活しなければなりません。
その中で、Eテレはひっそりと僕らの心の支えになり続けるのです。

デザインの話なんて誰も教えてくれませんし、気になるあの子はきっと流行りの音楽の方が好きなんです。
でも夜中にチャンネルを合わせれば、素晴らしい、あっと驚くデザインがそこにはあります。

音楽の授業でオペラを鑑賞しても、周りの友達は寝ているだけです。
色とりどりの衣装や、大がかりな演出。その全てを、感動をもう一度味わいたいときにはまたチャンネルを合わせるのです。

1つのボールの行方は、複雑かつ美しい物理法則に導かれて、今日も緑の旗を立てるために進み続けます。初めて月面で揺れる星条旗を見た感動も、そのチャンネルにはあります。

 

日常では孤独でも。
好きなものや美しいと思えるものを、学校や職場で共有できなくても。
今まで知らなかったことや、日常に溢れる不思議な美しさを。
孤独から生まれる芸術を。その美しさを。

周りに馴染めなくとも、周りと同じものを心から愛せなくても。
誰かの居場所は、僕らの居場所はきっとこの広く、美しく、素晴らしい世界と自然の中に、人間の営みの中にあります。

 

それを日本という国がテレビを通して僕たちに、伝えてくれていた気がするのは気のせいでしょうか?

側から見たらくだらない映像も、写真も、演劇も、デザインも、娯楽も、子供たちが元気に走り回る様子も。誰かの何気ない文章も。

効率や利益は大切です。しかしそれを気にしなくていいからこそ、非効率でも非営利でも、だからこそ誰かに寄り添い、まだ見ぬ興味と探求の希望があってもいいんじゃないでしょうか。

田舎の図書館の蔵書には限界があります。田舎の所得では一家に一台のPC ですら持てないかもしれません。でもその中に、田舎だからこそまだ見ぬ才能が眠っているかもしれないのです。芽が出ることに期待してはいけませんが、土の中に眠る種に、丁寧に水やりをする価値はとても効率がいいですし、だからこそそういったコンテンツにお金を払いたいと思います。

 

 

いつ何が起こるかわからない中で、人が生活の中で産み出し、成長させてきたものには、普遍的な美しさがあります。

その営みを絶やさないためにも。

 

 

 

           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心臓

朝、暇なバイトの間に窓の外を眺めていた。午前4時の外は暗い。
低気圧によりもたらされている長い雨を見ていた。空を見た感じ、雲もだんだん薄くなってきているようで、あと1時間もすれば止むように感じられた。

 

天気が悪いと起こる頭痛を感じながらぼうっとしていると、後ろから男に声をかけられた。
聴き馴染みのない声で、急に下の名前を呼ばれた。少し驚いて振り返ると、母の友達で昔から知っている人だった。
「お久しぶりです。なんでこんなところにいるんですか?笑」
常套句で会話の切口を得ると、しばらくぶりの他人同士、他愛もない会話をしていた。

はやけに僕の体調や、母の体調に変わりがないかどうかを聞いてきた。

僕自身特に悪い状態から変わりもないし、母のことなど知る由もないので、とりあえず代わり映えないことを伝える。そのあとは、19年間生きてきたコミュニケーション能力に基づいて、彼に同じ質問を聞き返した。

 

「俺は病気だらけでもうダメだな。」と彼は言った。

 

別に今まで深く関わる間柄でもなかったし、これと言った共通の思い出があるわけでもない。
それでも僕は半分、同情に似た感情を持っていた。もう半分には暗い好奇心を持ち合わせていた。

自分より年上の、大人の本気の弱音というものを聴く機会などなかなか無い。
弱音というものは大抵、どうしようもないくらい抱えている間に大きくなってしまった感傷であるか、それを話すことによって別角度から感傷を得ようとしているものだ。誰かを変わり身とするか、自身の内側から吐瀉物のように迫り上がってきたものかの違いしかない。どちらにしろ気持ちが悪い。

聴くに、彼は心臓系の病を同時多発的に患っているらしかった。
確かに言われてみれば、気色は良く無いし、眼も飛び出ているようであった。

彼は、若い僕が羨ましいという話や、体には気をつけろよと言って別の場所へと行ってしまった。








チョコレイトディスコ

集中力がなくなってきている気がする。

それほど熱量を向けられるものに出会っていないのか、それともついに加齢というモノを感じるべき時がきたのか。

毎回、こうやって文章を書くときには改行するたびにTwitterを見ている。

ネットで映画を見るときも、最近はiPhoneを見ながら画面に向かうようになってしまった。新書なんて一冊読むのに一週間はかかってしまったりするし、本を読んでいるうちに飽きて、別の本を開く始末だったりする。

どうにかならないものだろうか。

コンサータザナックス的なものは身体に合っているが、如何せん入手しづらい。

毎日鍛錬のつもりで何かするのも疲れるので嫌だ。

努力など必要とせず即効性が欲しいのだ。

 


こんなふうに書いていくと、面白いことに自己完結してしまうことがしょっちゅうある。今私は自己完結した。無敵だ。
自分にとって文章を書くというのは、「自身の再構築」であると思っているのはこういうところだ。

端的にいうと私は、集中力がないと言いながら、嫌なことから逃げようとしているのだ。逃避は必要な行動であるが、この場合の適切な行動ではない。
道教室に嫌々通っていた意味が今ならわかるかもしれない。

結局のところ、どうしても「血の滲む努力の末に生まれた何か」に人間は勝てないのだ。

死ぬほど嫌だった書道教室も、今では熨斗を書くのに役立っているし、手紙や住所の代筆を頼まれたときに自信を持って引き受けられる。

英会話も独会話も、文章の構築もなんとなくが積み重なるんだろう。

集中力もあと5分だけやろう。みたいなものを積み重ねていった末になし得るんだろうな。きっとそうだな。

 

そういえば、集中は英語で「Concentrate」だったな。
Perfumeのあれに似てるな。

4K映写機になりたかった

ふらっと夜の散歩をしながら歩いていた。
道端に植えられていた薄紫の花が目に止まった。

 

f:id:xjealousy666:20200821200209j:plain




そういえばこういう色の花は、ばあちゃんが好きだったな。と思い出した。

もう叶えられない約束や、叶えられるはずだった約束を一緒に思い出す。


正直に言って、ばあちゃんの声がもう思い出せない。

結局お盆もお墓参りになんて行けないまま過ぎてしまって、9月に差し掛かろうとしている。一番好きな季節は意外とすぐに通り過ぎて、またその季節を迎えるための一年が始まる。

一定の方向に流れているのか、堂々巡りを続けているのか。
よくわからないまま時間が過ぎていく。

映画のように、繰り返し同じシーンを見たり、気に入ったチャプターに一瞬で戻ることもできない。
映像は記憶できても音声は記憶されていない出来損ないの映画ならそれも当然かもしれない。

全てを記憶していたかったな。辛いことをたくさん覚えていてしまっても、それを霞ませてしまうくらいの強くて素晴らしい明るい光景が今までの人生にはあったんだろうな。

呵責

部屋の隅から、入り口を眺め続けていたが、文章を書こうと思って、MacBook Proを立ち上げた。

結局この40万円する機械も、僕が指を動かさなければ、ただの板だ。

40万円の意味がない。

僕の書く文には40万円の価値もないけれどな。

日が沈んだ後の部屋で、電気もつけず、画面の灯りだけを頼りに文字列を打ち込む。
寝られるわけでもなく、生産的な活動ができるわけでもない。この体や世の中にもとより意味は無い。労働や、恋愛や、家族という営みの中で、日々無理矢理身体に意味付けをしながら生きている。

結局他者が存在しなければ、自分自身のことなど語り得ない。
矮小で、どうしようもない存在だ。

他者に憧れ、近づきたいと思いながら、受け入れられそうになれば自ら一歩引いてしまう。「幸せを両手を広げて受け入れることができない人間。」だ。

自分がなんなのかもわからず、自分の中にある材料だけでは何も作り上げられない。それが間違っている。と言われてもそんなことは承知しながら、否定するしかない存在だ。

わかっているからこそ否定できる。自己内部に矛盾を抱えたまま、自分自身を探ろうとしているのに、他人を持ち出してしまう。堂々巡りな存在だ。

「自分の幸せは、他人の不幸が巡り巡ってきたもの」なのだ。
しかし、「自分の不幸は誰も幸せに話し得ない」のだ。

弱い存在のふりをして、世界の中で自分を卑下しながら、夜を明かし、境目を失った朝を迎えるのだ。
それは「あした」などではなく、無限に広がっていく「きょう」であって、どこにも逃げ場などは無く、死の淵へと追い込まれていくだけなのだ。