カメレオンの抜け殻

1日1本だけ、読むと元気になったりならなかったりするブログを書いてます。

評論するなら金をくれ

評論文が好きだ。

義務教育の教科書に載っているものや、文芸の評論、はたまた絵画の評論も好きだ。

 

評論をかける人間は往々にして頭がいい。文章がどこまでも整っている。理路整然と自分の評価軸をぶらすことなく、作品や事物を評価していく。
何故悪いのか。何故良いのか。


そんな文章を読んでいる時、自分も高尚で頭のいい人間になった気がする。小林秀雄を読んでいるときなんかそうだ。今まで自分の内側に無かった考えを、読み、飲み込み、まるで最初から自分の考えであったかのように、うんうん。と頷きながら読む。

自分が知らなかったことや、新しい評価軸、論の構成の仕方を読むのはとても楽しい。
知識欲は並々と満たされるのを感じるし、表現も真似してみたいと思う。

しかし心のどこかで、モヤを抱えている自分もいる。

いやだ。

 

自分の書いた文章は自分のために存在しているのに、人目についた瞬間他人のもの、みんなの共有物であるかのように扱われてしまう。

よくわからない人間にごちゃごちゃ言われ、お前は間違っている。頭のいい人間ぶるな。自意識過剰だ。などと言われるのだ。いやだ。

 

黙って僕のノートや作品にお金だけ払ってくれればいいとすら思う。
感想も特にいらないので、広めるときは買って、他の人に渡して進めてくれと思う。

他人に評価なんてされずに、買って金をよこせ。というのはダブルスタンダード過ぎるかもしれないが、それが心の底からの願いなのでしょうがない。

 

下らん他人の賞賛も、批判もいらない。
しかしうまい飯を食って、タバコを吸って、でかい家に住む金がほしいのだ。

お金をくれ。