言語と自分
僕らは日々言語との交わりの中を生きている。
これはサルトルの実存よりもわかりやすい。言語の前に実存があると僕は考えるけれども。夜中に書く文章は、言語のコートを着たただのヘドロでしかない。
いかに外面はよく取り繕っても、つまるところはヘドロであり、実存の奥に潜む言語にもなり得ない。
今日のタイトルの「言語と自分」も「自分と言語」にすることも出来る。
ただちょっと、最後の母音が「お」で終わって後味が悪いから「言語と自分」にしてみた。
言語は簡単に人の認知を歪めて、他人の心をまるで自分のもののように扱う力を秘めている。
相手が自分に対して好意を持つようにもできるし、自分はあの人が好きなんだと自分自身に催眠術をかけることもできる。
その時には元の自分というものが、他者との交わりをもって明確に明らかにされていないといけないし、元の自分から変わった自分も他人との対比や、他人となった過去の自分と対比されて起こる。自分自身を鏡で見ても、自分のことは半分も分からないのに、言語は心の鏡だから全てを映し出してしまう。
いまの僕は疲れているのかもしれないし、あの人のことを好きだと自己催眠をかけて、あの人から好かれないことにイラついているかもしれない。
だから夜中に吐く言葉はヘドロだって言ったんだよ。こうなることはわかってた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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