風は肌を撫でるが寒さしか感じない。
泣いて笑いながら帰り道を、来た道の記憶のままに辿る。
悔しくて、楽しくて、嬉しい。
悔しくて笑って、楽しくて泣いていた。
帰り道にYoutubeで中村佳穂と石若駿のセッションを聴いた。
マジで悔しすぎた。
才能と格が違いすぎる。
アウトプットもインプットもオリジナリティとかそう言う言葉じゃなくて。何も知らないのに楽しくて。でもこの音楽やグルーヴには近づけなくて、偉大な音の巨大な塊の前に、歓喜以外の感情を見つけることができなくて、ただ「楽しい」と言う言葉にだけ握りつぶされ、屈服して、楽しみ尽くすことができる。
自分なんか入り込めなくて、受容し消費し、歴史の革命を感じることしかできない。
新しい創作意欲すら湧き出させる。
無限に追いつけない。
消費に正しさなんて見出したことなんてないのに、この音楽を受容したことによってここまでキーボードが止まることなく弾けていく。
吐息が音楽になり、意味のない羅列が文学になる。
吐息が文学になり、意味のない言葉にグルーヴで意味が追いついてくる。
最高に楽しいから余計に悔しくて、自分の世界が拡張していく嬉しさと、拡張が止まることを知らない畏れ。
何もかもが未体験で、好み体験を自分自身が人生の中で作り出せず、他人に生み出される悔しさ。
悔しさで笑い、楽しさで泣く。
倒れる稲穂で風の形を知れる人間は、世界から生きることを許されているのかもしれない。