カメレオンの抜け殻

1日1本だけ、読むと元気になったりならなかったりするブログを書いてます。

死んだらどうなるんですかね?

先週か、先々週くらいに父方のおばあちゃんが亡くなった。

 

本当は死んだんだけど、亡くなったわけですね。

 

 

寄生獣の漫画読んだことある?

最終巻でミギーが

 

「どんどん意識が遠のいて、どんどん眠たくなっていく。それなのに孤独の輪郭だけは明確に強調されていく。これが死か。」

 

って言うシーンがあるわけですよ。

 

この感覚って、全身麻酔で眠らされるときの感覚にすごく似ているな。って思いながら今まで生きてきたんですけど。死んだらどうなるんですかね。

 

死ぬ瞬間にはエンドルフィンが大量に分泌されて、セックスの200倍気持ちいいとかって聴いたことあるんですけどほんとなんですかね。

 

 

 

 

僕が文章を書いている理由は

アリストテレスがニコマコス倫理学を通じて、2000年後の僕たちと対話できるように、僕が死んでもしばらくはインターネットで僕と話せるようにしたいな。」

と思って書いているんです。

 

孤独が肥大化していった先に、誰かとの対話を望むなんてちゃんちゃらおかしいし、バッドに入って「ぼんやりとした不安」なんていう大変に自己中心的な理由で死ぬかもしれないんですけれどもね。

 

おばあちゃんの葬式では、唯一、弔辞を読ませていただけたんですよ。

すんごく嬉しかったんですね。

人が死んだ。おばあちゃんが死んだ。

でもその中で、自分ができる最大のことができたと思って。

 

でもそれも結局自分のためですよね。

自分がこれだけできたって思いたいんですよね。

しかも過去の自分の失敗や、おばあちゃんが悲しんだことまであげつらって。

 

おばあちゃんの葬式でぼんやり悲しいような気分になって泣きそうな気分の時も

「ここで流す涙はなんのためで、誰のためなんだろうな。」

とか思ったし、同時に

「お世話になった人間の葬式で、涙の一滴も流せない非情な人間なのかな。」

ってずっと考えてた。

 

コンビニでよくおばあちゃんと一緒に食べてたプリンを見つけて思わず買ってみたり、スーツ屋にいって、結局ばあちゃんと成人祝いの写真撮れなかったって思ったり。

 

結局、アリストテレスとの対話も、おばあちゃんとの対話も、涙を流す理由も、結局は物質を通して誰かの死を強いトリガーとした自己への批判や、自分を慰めるためなんですかね。自分は正しくて、自分は生きていれるくらい心が強くて、誰かのために何かをしてあげられると思いたいんですね。きっと。

 

そう考えるとJ-POPで歌われる「涙は人を強くする」みたいなのは正解で、HIPHOPで歌われる「死んだら何も残らない」みたいなのは間違いなんですかね?

自分の信じたいことだけを信じていればいいんですかね?

 

僕が死んで、誰かがこの文章を読んで僕のためだと思いながら、自分のための涙を流すんですかね?