心とガンジャ
ガンジャ。つまり大麻について、所持が非合法な国「日本」で言及すると様々な反応があるだろう。ラッパーが捕まったり、スノーボーダーが捕まったりしている。
これは使用した人にはわかるだろうけれど、あれは天からの贈り物だ。
別に今の僕のアタマがぶっ飛んでるわけじゃない。
使用したことがない人向けにいうと、「鬱と躁の揺らぎ」に似ている。創作意欲(特に文学等、医学的にも鬱病的リアリズムとして知られる)が湧いてきて、それ以外にあるのはうっすらとした全能感と、血液がここにあるという実感が存在するあの感じだ。
どちらにも当てはまらない人は、深夜2時に二燭光の明かりの下でNujabesの『Luv(sic)』やBillEvansの「リバーサイド三部作」を聴くといい。
身体中の血管を音楽の因子が駆け抜けて、自分の存在が明瞭になり、それ以外は何も感じなくなる瞬間があるだろう。人によってはこの時に西田の主客未分の状態を感じ取るはずだ。
まぁ、何を言ってもヤク中の戯言だと思われればそれまでだがこれだけは確かであろう。
「大麻はあくまで幸せを構成する一部分でしかなく、本当に重要なのはそれ以外の部分である」
ということだ。
「なぜミュージシャンは大麻を愛するのか」「なぜアーティストは大麻を愛するのか」
「なぜ、ニコチンやアルコールより依存性が低いのに繰り返し使うのか」
その答えは常に自分自身にベクトルが向くからだろう。HIPHOPも絵画もこのブログも。全ては自己対話と、自分の存在の主張である。社会と自分の間に芸術という仮想次元を作り上げ、その中で自分がどのような人間で、何を幸福として感じ、何を生きる喜びとするのか。自分自身の悲しい記憶も寂しい記憶も、肯定できない感情も認めた上で自分自身が出来上がっていく。この過程は、ごく一部の人が言語化できて、それを表現するが、間違いなくこの地球上の人間誰もが経験することだ。
芸術は地球上の人間全員がしている営みだ。感情を表現すること、空想すること、隣人を愛すること。誰かを慈しみ、誰かを憎しむこと。
全てを肯定する過程に、大麻がある人もいるし、大麻がない人もいる。
ただそれだけなのだ。
アルコールも覚醒剤も唐揚げも大して変わらない。
好きな人は好きだし嫌いで心から憎む人がいる。良き側面も、悪い側面もある。
知らずにいうか、知った上で言うか、データで言うか、体験で言うか。
最後に、なぜ合法な国があって、非合法な国もあるのか。
その地域がどういう地域なのか。福祉の観点、税金の観点、経済の観点、幸福度の観点様々な視点から、自身の目で見て欲しいし、判断して欲しい。
最後の最後に。
僕は大麻を営利、譲渡、使用のために「所持」したことはありません。