カルメン
「カルメン」
宇多田ヒカルの音楽は素晴らしいものだと今日気が付いた。
なんだか聴くチャンスがないような気がしていてなにも聞いていなかった宇多田ヒカルの曲だったが、90’の彼女の曲は、最近のJPOPがそれらの模倣品に聞こえてしまうようなものだ。
ビゼーの作曲した第一組曲の「カルメン」は誰でも聞いたことがあるはず。
さらにいえば音楽の授業かなんかで、誰もが一度は目にしたことがあるオペラ。
意外かもしれないが僕はオペラが好きだ。
金持ちになったような気分がする。同年代には理解しきれないような感性を持っている気分になる。高尚な芸術を理解できない、浅薄な自分をあざ嗤える。
自身の内部に卑下する対象を持っているので、自分自身の評価は一瞬にして上がって下がる。元いた場所に戻ってくるように。結果としては自分の知る自身の価値は下がっているのに。
初めて見たのはいつか思い出せない。
夜中にやっていたN響の再放送だったのかもしれない。激情的な音楽と、映える紅。美人なカルメン役のオペラ歌手に、世界の理想を映し出す容姿のドン・ホセ。
全てが見たことのないもので、確かに興奮したことを覚えている。
西田幾多郎は「主客未分」を現代日本哲学に残したが、その先については明確に言及されているのだろうか。
その先というのはオリジナルとレプリカの区別についてだ。
夕焼けを最初に見たときの感動は、感動を認識した時には過ぎ去っているだろう。
ならばその場所で別の日に夕焼けを見て感動したなら、その感動はまた別の感情なのだろうか。それともオリジナルから派生したレプリカの主客未分なのだろうか。
ここでわざわざ西田幾多郎などという、ムヅカシイ人間の名前を挙げ、議論とも呼べないような言説を広げるのは僕の虚栄心とエゴでしかない。
しかしカルメンを見続けるこの感動に関しては、どのように説明をしたらいいかわからない。
中学校の時、よくわからない演劇団が中学校でカルメンを演じてくれた。
内容もだいぶ短く、演出もしょぼい。しかしあのカルメンは僕の人生史上最高のカルメンだった。だった、という言い方は正しくない。今でもそうだ。
この後に、ちゃんとした劇場でカルメンを見たが、記憶になど残っていない。
中学校の古ぼけた体育館で上映されたカルメンこそが僕のカルメンだったのだ。
この感動だけを覚えてカルメンを見続けている。
本物のカルメンなどどうでもよくて、ただ「感動したカルメン」だけを追い求めてカルメンを今日も見続けている。