南風
この世の中には2種類の人間がいる。
目覚まし時計が1つで十分な人間と、そうで無い人間だ。
あいにく僕は後者なので、3つ目覚ましをかける。
昨夜は3つで起きれるかな?とか考えていた。しかしそれは、遥か昔の昨日の夜のことだ。今朝の僕は、3つの目覚ましを止める作業を煩わしく思う。
メガネがないと何も見えない僕は、手探りでナイトテーブルの上のメガネを探す。思わずレンズを素手で触ってしまった。指紋がレンズにしっかりついたことだろう。はぁ、また煩わしい作業が増える。
心地よい手触りのシルクのメガネ拭きで、丁寧にレンズを拭き、髪の毛と耳タブの間にゆっくりとツルを滑らせる。これでひとまず視界を取り戻した僕は、6時07分のかすれたデジタル表示を見て、早起きの完成に安堵した。
何も無い日曜日に早く起きなければいけないのは、何かがあるからだ。
僕は今日髪を切る。
そのために片道40分と800円のバス代を消費して隣町へ向かう。
それほどの時間と交通費を消費するのだから、よっぽど腕のいい理容師なのだろうと思うかもしれないが、僕が知る限り世界一だ。
と言っても僕は生まれてこのかた、ここを含め3軒でしか髪を切ったことはないが。
狭くて古めかしい小さな床屋。「南風みなみかぜ」
その名前とは裏腹な、東北の冷たい風で冷え切った金属の取っ手に手をかけ、ガラス張りの扉をゆっくり引いて、店内に入る。すると今度は、「南風」と言うよりかは、「春風」の方が相応しいような、お湯とシャンプーが混ざる暖かな香りがメガネを白く曇らせた。
「ありゃ。メガネが曇ってだがえ。」
視界の無い僕は、聴覚を頼りに声の方向を向く。その動作のままレンズをパーカーの袖口で拭う。
すっかり視界を取り戻した僕の前にいたのは、東北訛りのイントネーションと、耳が遠いせいか少しデカイ声の、小さな白髪のおばあさん。この店の主人であり、僕のおばあちゃんだ。呼び名は、山田のばあばだ。
「久しぶり」
耳の遠いばあばに聞こえるように、少し大きい声で言う。
「ありゃー。すっかり伸びったーがね。前髪も。なぁどすっぺーが。」
2ヶ月も切っていない僕のすっかり伸びた髪を見上げながらばあばは言う。
「そんだっけ、切りに来た。」
自然と僕の言葉も、彼女に合わせたものになる。
「大仕事だなこりゃ。」
ばあばは、シャンプーの香りより暖かく優しい笑顔をたずさえながら、僕を椅子へ促した。
「いつもの通りお任せで。」
椅子に座り、カットクロスを巻かれ、霧吹きで頭に水を吹きかけられながら、伝える。
『いつも通りお任せで』
この言葉を最初に使ったのは、まだここで髪を切るのが嫌だった頃だ。
あの頃は少し時代遅れのセンスで切られるのが嫌だった。量産型個性の中に埋もれたかった。そんな自分への言い訳が『いつも通りお任せで』。これはおばあちゃんが勝手にこの髪型した髪型だから僕には関係ない。そんな言い訳がこの言葉だ。
しかしいつからか僕はこの言葉の無意味さに気がついた。意味のない個性に縛られ、誰かのせいにするくらいなら、南風の吹くままに切られた髪の毛の方が個性的で、最高にカッコいいじゃないか。
それから「いつも通りお任せで」はお気に入りの言葉だ。
散髪が始まれば僕とばあばは、他愛のない言葉を交わす。
最近の学校の事。
ばあばの膝が痛い事。
大学入試の事。
ばあばが健康のために気をつけている事。
そんな中で僕はふと考える。
あと何回ばあばに髪を切ってもらえるだろうか?
もし大学に受かれば、僕は年に2回も地元に帰ってこれないかもしれない。
そのまま就職したら、お正月しか帰ってこられないかも知れない。
その前にばあばの体力も限界かも知れない。まだ元気だけど今年で76歳だったと思う。
そしたらあと両手で数えるくらいしか、髪を切ってもらえないかも知れない。
ひょっとすると片手で数えるくらい。
いや辞めた。
そんなこと考えるのは止めた。
そんなこと考えてもしょうがないから、来れるうちにいっぱい来て、「いつも通りお任せで」って言うんだ。片道40分と800円で買えるならめちゃめちゃ安いじゃないか。
きっとばあばは700歳まで生きるし、698歳になるまで髪を切ってくれる。
きっとそうだ。
南風より少し暑いドライヤーが済めば、毛先を整えて、今日の散髪もお終いだ。
「ありがとう」
椅子から立ち上がった僕は、ばあばにお礼を言う。ハサミで梳かれて軽くなった頭は、いつもより素直に下がる。
「こんなに伸びる前に、こまめに来て、髪は切るもんだーがえ。」
南風より暖かい笑顔で、ばあばが言う。
「もっとこまめに来る。次来るときはお煮しめ食べたい。」
「来っとがん来っとがん。いづでも作って待ってます。」
「またね」
ゆっくりとドアに手をかけ、そっと押しあける。
一歩外へ出ると、今まで暖かい南風の中にいたことを鮮明にさせるように、冷たい東北の風が吹く。
次は、もっと寒くなる12月に来よう。より暖かい南風を感じるために。そしてまた来月も「いつも通りお任せで」ってばあばに伝えて、お互いの日常を、髪を切り終えるまで話すんだ。
そうやって1回1回を積み重ねて、全人類の両手を使っても数え切れないほど、ばあばに髪を切ってもらいたい。
そんなことを考えながら、帰りの40分を運ぶバスに乗り込んだ。
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