カメレオンの抜け殻

1日1本だけ、読むと元気になったりならなかったりするブログを書いてます。

「無修正ヌードと戦争はどちらが悪か?」

最近、愛知トリエンナーレで開催されている「表現の不自由展」が何かと話題になっています。

 

交付金が取りやめになったり、展示の安全性を確保できないため休止したり。

個人的には、そう行ったことも含めて表現の不自由展の展示の一つであるように感じてしまいます。

 

今日は、一本紹介したい映画があってこの文章を書いているんですね。

 

その映画とは

ラリー・フリント」(原題: The People vs. Larry Fliynt

(ちょっと著作権とか調べたくないので画像は勘弁) 

 

主人公であるラリーフリントは実在の人物であり、アメリカにてポルノ雑誌「ハスラー」を創刊して巨万の富を得た人物である。この映画はラリーフリントの伝記的映画。

 

ちなみにラリーフリントが「ハスラー」を創刊した時には、皆さんご存知の「プレイボーイ」等は出版されていました。その中でラリーは、広告が高級路線で紳士的な雰囲気のあるプレイボーイとの差別化のため、突き詰めたどエロ路線で対抗します。男子の味方です。ありがとうラリー。

 

ですがこの中で、ラリーの発行した「ハスラー」は下品だ!。という理由でポルノ反対派の活動家の格好の的になってしまいます。その後、戦いの場は法廷へと移り、ラリーはそこで、この映画の根底に流れていると言える演説をします。

 

「殺人は違法だが、その殺人現場を写真に撮れば『ニューズウィーク』の表紙を飾れるかも知れないし、ピューリッツァー賞だって夢じゃない。対してセックスは合法で、皆するのは大好きなのに、男女のセックスを写真にしたり女性の裸を撮ると刑務所に入れられる可能性がある。」

 

更に彼は、「ハスラー」のポルノ紙面の反対側に戦争の悲惨な戦闘の写真を掲載しました。彼は、

「卑猥で過激なヌード写真と、国家の行なっている殺人、どちらが悪なのか?」

というメッセージを自身のポルノ雑誌で訴えたのです。

そしてここからラリーの長い法廷での戦いが続いていく。と行った映画です。

 

 

僕はこの映画を、表現の自由問題について議論している人々に是非観ていただきたいのです。

 

自分が、不快だと思っていることはなぜ不快なのか。

卑猥で、グロテスクで、自分の趣味に合わないものは「悪」でしょうか?

愛国心がなく、都合の悪い部分を写し、為政者に反抗するのは「悪」でしょうか?

他人を不快にさせ、誰かの先祖を侮辱し、公共の福祉のために名誉を毀損することは「悪」でしょうか?

 

正直僕にはよくわかりません。

頭のいい学者の先生たちが議論してくれています。

 

僕はどっちとも言えない意見を自分の中に抱え続けます。

ただ一つ言えることは、表現の自由のおかげで今僕がブログを書けています。

 

最後にこの映画のエピソードです。

この映画で監督を担当したミロス・フォフマン監督は、第二次大戦中のチェコスロバキアで育ちました。

彼は大学教授である養父に育てられましたが、その養父はゲシュタポから尋問を受け、禁書を学生に配った罪で逮捕されのちに死亡しています。彼の実の母親もアウシュヴィッツで亡くなっています。

彼は自身の体験として、表現の自由が侵されていくとどうなるのかを知っていました。

この映画の脚本が完成した時フォフマン監督は映画製作の第一線を退いていましたが、この映画のためならと行って即決したそうです。