カメレオンの抜け殻

1日1本だけ、読むと元気になったりならなかったりするブログを書いてます。

仲直りまでが正しい喧嘩

夏目漱石の「こころ」に関して、久しぶりに新しい論文が出ていたので読んでいる。

 

それに付随して昔読んだ論文もここ数日で4本ほど読み返した。

 

しかし、これはだいぶ前から抱いている感情なのだけれど、何を何回読んでもよくわからない。単に自分の理解力に限界があったり、理解したくないのかもしれないのだけれど、一番最初に「こころ」を読んだ時の、納得感みたいなものを深掘りしようとして行けば行くほど、その納得感からは離れてしまう。

 

「主客未分」とはこういう事なのか?

とか思いながら、それぞれの人間の死や、のこった生の痕跡をたどってみるが、結局あるのはだだっ広い推測の荒野が広がっているだけで、新しい解釈も憶測や曲解にしかならないのではないか?

という感情が自分の心の中に鈍色に渦巻きながら居座っているだけの状態を生み出している。

 

結局、完結したものや中途半端なものこそが、完全な完成体であって、その後の研究などは蛇足なのだろうか?

 

少女漫画「NANA」の21巻や、アニメ版エヴァンゲリオンの最終2話、ジブリの「耳をすませば」。

なんとなく心の中で、秩序や完璧な結末が望まれながらも、混沌や先の見えなさを含んだまま、物語として一つの終わりを迎えていく作品がある。それらは、自分たちの脳内で拡張されたり、分解されながら自分自身が望む結末に読者、視聴者が書き換えていける。

 

不安な自分を浮遊感のある結末と同化させ、自分自身が持つ悩みや、葛藤を「存在しても許されるもの」とするシンボルにこれらの作品はなっていく。

思春期やモラトリアムの中でこれらの作品を通して、悩んでいる自分を抱えたまま、「悩んでいることに悩んでいる状態」と決別できる。

 

だからこそこれらの作品に惹かれ、「こころ」の完全解釈や、死の解明などが心に刺さらないのかもしれない。

 

宗教や平和、愛もそのくらいがちょうどいい気がしてきた。

どの経典も、どの国の平和も、誰の愛も、近づけば近づくほどに輪郭がパレットの上の水彩絵の具のようにわからなくなっていく。

何となく神はい流けれど確証はない。何となく戦争なんてなくて個人の争いは少しだけ起こる。異性が好きになることもあれば同性を好きになってもいい。

 

全てが許されて、誰かを傷つけることだけ許されなくて、傷つけることがなんなのかわからないまま、世界は測られることなく。

 

喧嘩しても仲直りし続けられる日々があればいいな。