カメレオンの抜け殻

1日1本だけ、読むと元気になったりならなかったりするブログを書いてます。

平成的文学ノススメ

小学校の頃には年に2回読書感想文を書いた。

 

もっぱら学校からの宿題であり、小さい頃の僕にとっては苦痛でしかなかった。

なにせこの僕と言う男は、人よりも計画性というものが幼い頃から欠如しており、それは今に至るまでも変わらない。夏休みの宿題も、期限までに全て終わったのは小学校3年生の夏休みが最初で最後である。いや、計画性が欠如していることはもちろんであるが、努力というものをしない点も問題である。それは10年前から自覚している症状であるが、これを改善しようという努力も無いのである。この一種の負の連鎖を断ち切るだけのものを、お察しの通り何も持っていない。これは社会に生きる上で大きな欠陥であり、僕の生きづらさの84%くらいを占めているだろう。

 

しかし僕という男はどこまで行っても自分に甘い人間である。

このような欠陥だらけの自分すらも、愛おしく感じ、大切に感じるのである。計画性と努力の代わりに得る自己肯定感である。この自己肯定感が無ければ生きていけなかった気もするから、これは僕が本能的に得たものといっても過言では無いはずだ。この生きる上での進化は、僕をもう戻れない場所まで引きずり込んだ。

 

なれば戻ってみようと思うのが人間、もしくは僕なのであろう。本を読んでいると、感想文を書きたくなってくる。この衝動は非常に耐え難かった。性欲などといった薄汚れた欲に溺れた衝動では無い。純粋に学問として何かを批評し、その作品に自分ならではの価値を見出したい。これほど美しく、無垢な学問への衝動は今までには無いかもしれない。我慢にも計画性がない僕は、そうして筆をとった。

 

読んでいた本といえば古市憲寿氏の「平成くんさようなら」である。(この本を買うに至る話を前のブログに書いているため読んでいただきたい)

 

先にあらすじを紹介しよう。

主人公は平成(ひとなり)と付き合う愛ちゃんであり、平成くんは愛ちゃんに「安楽死をしたい」と告げる。急な宣言に愛ちゃんは戸惑うが、その後の日常的事象を乗り越えて、お互いが納得する「ある形」で死を見出す。というものである。

まぁ要するに愛ある死に方を探す恋人の付き合いをするわけだ。

 

僕はこの本がとても気に入ってしまった。なぜならば、僕の心を写し取ったかのような生死観が展開されているからである。主人公の異常に死に価値を見いだしたがる特性や、平成と共に殉死しても良いとする価値観。最近僕と生死観を分かち合った人ならわかるであろうが、これらの源流を芥川的であるとするところまで似ているのである。それでいて漠然とした不安というものをそれに留めず、社会的不安と個人的不安に分けている。なんと素晴らしいことか。たしかに自分の価値観にあった小説だけを良作だ良作だと囃し立てるのは芸がないが、漠然とした不安をその2つに分けているだけで素晴らしい。

 

ただ少し平成的要素を、多く詰め込みすぎてしまって、固有名詞が文字として洪水を起こしてしまっている印象である。たしかに物質の洪水を、平成的とも考えられるが、少しくどすぎる気がしないでもない。

 

その要素を加味しても、平成の文学として、よくできているものの一つであることは間違いない。

Google Homeと主人公の同一化は素晴らしく整っていて、そこに見えるわずかな関係性の綻びが、より美しさを際立たせる。

セクシュアルな表現も非常に現代的で、割り切った性であるとか、俗に言う草食男子をうまく描き出している。この小説のセックスシーンは女性主体で行われる。このセックス描写こそ新フェミニズムが台頭する現代への最も正しい切り出し方のように思える。

 

そして最後の安楽死を願う主人公が、自分なりの死の形を選ぶシーン。

これは今現在不安に押しつぶされている僕に、新しい視点を提供するものであった。現代では生をアップデートするばかりで、死のアップデートというものは進んでいない。これは、僕の中では非常に大きな問題であり、生きるか死ぬかといった二項対立には収まらないような気がしてならない。そんな僕に第3、第4の視点を与え、さくらももこ氏や、長谷川町子氏のように、作品を通して不老不死を得る選択肢も与えた。

 

文学は、感情のシェアや、生きる希望をもたらすものであると考える。

そんな中にも新たな「死なない死」を提供するこの「平成くんさようなら」には感嘆の声を上げざるを得ないであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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