どっちに転んでも貧乏
貧乏は罪だ。
といっても世の中には2種類の貧乏がある。
働いてもなお貧乏なのと、働かずに貧乏なのだ。
働いても貧乏なのは大変である。毎日働いても、快楽的学問のための本1つも買えない。それが「民主主義と教育」を買おうとする場合なおさらである。さらに働けば時間を商品として消費してしまうため、図書館にすら行けない。貧乏人への救済は、働く貧乏人にとって機能していないように感じてしまう。
一方で働かずに貧乏なのは、時間だけはある。
社会的に切迫していても、家賃が払えなくとも時間がある分なんでも出来る。
この2時間で僕は、働く貧乏と働かない貧乏を行ったり来たりしている。
家業の飲食業を手伝いつつも、低賃金なため本の一つも買えない。かと言って本当に一冊も買えないわけではなく、あくまでも比喩表現的な範疇の中にとどまる。
そこからバイトが終わって暇になれば、興味のある学問などにひとつふたつ調べ物をしてみる。しかし僕は、扶養家族なので家賃も払わなくていいし、食費も採点限度払えばいいのである。
結局のところは、大正文学に憧れてみても、今の自分などどっちつかずの何者でもなく、存在価値すら疑われるような、モラトリアム凡人なのだ。
こんな僕の、醜く歪んだ死の渇望でさえも、文学は圧倒的な包容力で包み込む。
紙の上でのみ自由でいられる僕達の精神は、まだ羽ばたく準備をしていなかったり、もう出来ていたりする。
600文字で何を表したのか、この後の100文字で何をするのか、それすらものらりくらり指先と筆先に任せる、自由な旅。その点は大正文学同じである。その点だけであるが。
今後10年で、僕がどっちの貧乏になるかはわからないが、ひとつ確かなことは、貧乏なことだけだろう。
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